日本サッカーの未来を危惧しています
以前こちらの記事で、浦和の試合で起きた事象を題材に、スポーツマンシップのあり方や日本サッカーの未来について書きました。
それをきっかけに、スポーツマンシップとは何なのか?掘り下げて考えてみたくなり、こちらの本を読んでみました。
題名:スポーツマンシップバイブル
著者:中村聡宏(日本スポーツマンシップ協会 代表理事)
発行:東洋館出版社
スポーツマンとは何なのかを改めて学んだ上での、プロサッカー選手に対する希望をまとめました。
スポーツマンとは?
スポーツの歴史的背景
本書では、スポーツという言葉の歴史的背景を教えてくれました。
・スポーツという言葉は、19世紀のイギリスで作られた言葉
・当初、スポーツはただの遊びであり、勝敗にはこだわりはなかった
・植民地支配のできる有能な人材、ジェントルマンを育てる目的でパブリックスクールが存在していた
・そこでスポーツというツールを使って、道徳心を養い、人格形成・人材育成していた
そうだったんですね。
当時は、結果というよりは競技の中で経験するプロセスを大事にすることに重きを置いていたということなんです。
スポーツマンとは?
スポーツマンとは?ということで解説している箇所がありました。
スポーツ本来の意味や価値を理解して愉しむことができ、スポーツマンシップの意義を理解し実践できる良き人格者。自らを律することができる、他人から信頼されるかっこいい人。(P29)
この本を読み終えた中で、この言葉に最も凝縮されているんじゃないかと思いました。
特に人格者と、他人から信頼されるかっこいい人という部分。
今のサッカー選手の各々が自問自答した時に、どれだけの人が自分はスポーツマンだ!と言い切ることができるでしょうか?
スポーツマンに求められる3つの気持ち
もう少し詳しく、スポーツマンに求められる3つの気持ちの解説がありました。
・尊重(Respect)
プレーヤ(相手、仲間)、ルール、審判に対する尊重
・勇気(Braveness)
リスクを恐れず、自らの責任をもって決断・行動・挑戦する勇気
・覚悟(Resolution)
勝利をめざし、自ら全力を尽くして最後まで愉しむ覚悟 (P30)
サッカーは、バレーボールやテニスと違い、相手と直接フィジカルコンタクトがあるスポーツです。ボールの奪い合いの中で、相手を倒したり、引っ張ったり、相手を蹴ったりと暴力的なプレーが頻繁にあります。
その競技の特性上、格闘技とまではいきませんが、それに近いプレーが繰り広げられます。
一方、同じフィジカルコンタクトをするバスケットボールはどうでしょうか?相手を押し倒したりとか、引っ張ったりという暴力的なプレーはないように思います。なぜでしょうか?
理由として考えられるのは、
・フィジカルコンタクトに対するファールが厳格である
・コートが狭く、プレーする人数も少ないため、レフェリーの目が行き届きやすい
ということがあると思います。
サッカーはその逆。コートが広く、プレーや人数も多いことで、暴力的なプレーやズルいプレーを見逃すというか許容する結果になってしまっていると思います。選手としても、見えないだろうしちょっとルール違反してもだ丈夫だろうという人間的な弱さも垣間見えています。
VARの進化含めたレフェリングの高精度化は必要なのだとは思います。しかし、それだけに頼っていてはいけないと思います。
重要なのは、各プレーヤーがスポーツマンとして、スポーツマンに求められる3つの気持ちを備えているかどうかなんじゃないかと思うんです。自らが、そういうスポーツマンらしくないプレーをしないと心に決めている人格者であるべきと思うんです。
勇気を大事にして欲しい
本書には、こうあります。
勝利を目指すだけではなく、スポーツマンらしく振る舞うこと、利益のみを追求するのではなく、個人や社会と誠実に向き合うこと。
自分で自分の胸に手を当てて「自分を誇りに思えるか」「子供に説明して自慢できるか」などと考えてみれば、自分がどのように行動すべきか、あらためて見えてくるはずです。(P108)
スポーツマンの説明のところにあったように、”スポーツマン=人格者”なんですね。
そして、”人格者が勇気を持って行動すること”、これに尽きるんじゃないかなと思います。
つまり、どんな人に対して”ダメなものはダメ”という勇気です。
本書には、日大アメフト部の話が例に上がっていました。相手選手を怪我させるようなプレーをしろと監督に強要された選手が、その通りにやってしまったことに対し、もちろん一番悪いのは監督だが、その選手がダメなものはダメだと拒否する勇気を持って欲しかったとありました。
勝つためには暴力的なプレーを厭わないというのは、スポーツマンを逸脱する行為です。それは相手を尊重していないからです。選手たちにはそれを拒否する勇気を持って欲しいと思うんです。
そして、あえて暴力的なプレーをするつもりではなかったが、勢い余ってやってしまったプレーに対しては、しっかりと謝ってほしい。その勇気を持つのがスポーツマンであると信じています。
スポーツマンシップとフェアプレー
ちょっと混同しやすい言葉たちの解説もありました。
スポーツマンシップとは?
スポーツマンシップの定義はこうです。
スポーツマンシップは、スポーツマンになるための心構え、「Good Gameを実現しようとする心構え」です。これはアスリートが競技を通じて少しずつ身につける人格的な総合力といえます。
ここでいうGood Gameを実現する条件とは、スポーツに参加するすべてのプレーヤーが、前章で述べた「尊重(Respect)」「勇気(Braveness)」「覚悟(Resolution)」の精神を発揮し、スポーツマンらしく振る舞うことです。(P47)
スポーツマンが心にしっかり植え付けるべき、基本思想であると思います。
それがない人は、そのスポーツに参加する資格がないのです。
フェアプレーとは?
一方、フェアプレーとは何なんでしょうか?
フェアプレーは、本来、ゲームの中で守るべき「ルールにのっとって公平な条件で正々堂々と戦う」という考え方や態度のことです。
(中略)ゲームをとりまく全てを尊重し正々堂々と戦う「フェアプレー」の姿勢は、スポーツマンが体現すべき行動規範です。
(中略)フェアプレーはスポーツマンシップの一部であり、スポーツマンシップは、「フェアプレー」「Good Loser」「Good Winner」「Good Fellow」などの概念を包括しているのです。(P78)
そうなんですね。フェアプレーは、
「ルールにのっとって公平な条件で正々堂々と戦う」という考え方や態度
なんです。
自分は、この言葉の中にある
”正々堂々と”
という言葉が、フェアプレー、引いてはスポーツマンを表している重要な言葉だと思うんです。
試合を見て、選手たちにいつも問いたいのです。”正々堂々と戦っていますか?”と。
ルールについて
ルールについてとそれを守りさえすればいいのかという、自分が疑問に思っていることに対しても記述がありました。
なぜルールがあるのか?
ルールがある理由についての解説です。
「なぜルールを守らなければならないかカッコといえば、それがスポーツを愉しむために創られた共通の約束事だからです。(中略)スポーツに参加するための前提条件であるルールが尊重できない人にスポーツを愉しむ資格はありません。(P124)
すべてのスポーツにおけるルールは、ほぼ3つの機能に集約されます。
・共通性(前提条件・公平性)
・非暴力(暴力の抑制)
・困難性(難しさの増加による愉しみの増加) (P125)
ルールの3つの機能については、初めて知りましたが、なるほどと思いました。
その観点で言うと、非暴力性においてはサッカーのルールは実際にそれが運用されているレフェリングも含めて、不十分だと思います。
ルールを守れば十分か
ルールを守れば十分なのかと言う、自分の最も疑問に思う部分についての解説がありました。
スポーツには、ルールに明記されていなくてもとるべき行為が存在します。(P131)
参加者すべてが、そのスポーツの伝統に対する責任を負うことを認識し、その上で、自分たちが果たすべき責任を自覚することが重要です。そして、「みんながやっているから」という言い訳を認めないようにしましょう。
一見その競技のルールや慣習にのっとっているようで、スポーツの本質に反している場合は、スポーツマンにふさわしくない行為であることは明確です。スポーツを、ルールを理解し、尊重する人がスポーツマンであることを忘れてはいけません、(p136)
ルールを守ると言う言葉は、レフェリーにファールを取られていない範囲といえます。なぜなら、実際に試合でルール違反をしているかいないかを判断するのはレフェリーなのですから。
そこには実際はファールなのに、レフェリーが見逃していたり、レフェリーの基準が曖昧だったりしてファールを取られない範囲が存在していると言うことです。
サッカーのレフェリングは、最初の危険なプレーで、イエローカードを出すか出さないか?で、その後のレフェリング基準が決まるとも言われます。イエローカードを出さないレフェリーならば、いくらか危ないプレーをやってもいいやと相手に危害を与えるようなプレーを続ける。
これがスポーツマンの行いなんでしょうか?彼らは、胸を張ってスポーツマンと言えるのでしょうか?自分には、彼らがスポーツマンだとは全く思えません。
スポーツマンシップを邪魔するもの
スポーツマンシップを邪魔するものとして、スポーツの商業化、つまりプロスポーツがあります。もっというと、それによって生み出された勝利至上主義という考え方です。
スポーツに対する相反する両極的な考え方の存在
相反する二つの考え方の解説がありました。
スポーツの本質ともいえる遊び心と真剣さの間の微妙なバランスに対する理解を間違えると、以下の二つの理論が生じます。
第一の極論は、勝利至上主義です。(中略)
第二の極論は、快楽至上主義です。(中略)
勝利至上主義は「遊び心」を捨てさせ、快楽至上主義は「真剣さ」を排除します。(P158)勝利への欲望と愉しむ欲望については、どちらか一方に偏るのではなく、そのバランスをコントロールすることが重要です。(P161)
これは言い換えれば、結果か?プロセスか?どっちを大事にするかということにつながります。そして、どちらか一方に偏ることは非常に危険であると思います。
勝利至上主義
極論、勝利という結果があれば何をしてもいいという考え方があります。ルールを逸脱しなかれば、もっというと逸脱してもバレなければ、ズルというやつです。
・レフェリーの見えないところで、相手を押し倒す、引っ張るなどの暴力的なプレーをする
・意図的に、もしくは感情的に、対戦相手に怪我をさせる
・勝利のためなら、相手を怪我させてもいい
・勝つために相手を挑発するような言動を発する
・対戦相手が、ルール違反してもファールを取られないのなら自分も同類のプレーをする
(赤信号みんなで渡れば怖くない的な考え。主体性のなさ)
こんな考えを持つ人々は、正々堂々としてはいないという点で、スポーツマンではないと言い切れます。
快楽至上主義
この言葉の意味としては、スポーツというものの成り立ちからして”愉しむこと”が大事なのだから、それが最も重要だという考えです。
言い換えると、結果より、内容。プレーの美しさやプロセス、そこから得られる愉しさや充実度合いが大事で、結果はその後ついてくるものでそれほど重要ではないという考え方だと思います。
しかし、これは、プロスポーツにおいては実現の難しい理想のようなものだと思います。なぜなら、勝たなければプロスポーツとして成立しなくなるからです。
プロスポーツは、試合でのチケット代やグッズ、スポンサー費用などの売上金で成り立っています。それらは、チームが勝ち続けることで成績が良くなれば、どんどん増加していくでしょうし、勝てなければ減少していき、クラブの規模を縮小せざるを得ないという結果になってしまいます。
プロスポーツがフェアプレーの実践を難しくする
ここ数年のプロスポーツにおける勝利至上主義への偏りが、フェアプレーの実践を難しくしていることは明らかです。
注目度を上げることが重要なプロスポーツとしては、ある意味仕方ないことではあるのかなと思います。しかし、このまま放っておいては、日本サッカーの未来に悪影響を及ぼすのではないか?と危惧しています。
その偏りを是正するためには、
①各選手たちが勇気を持ってスポーツマンとしてのあるべき姿を体現すること
②ルールの厳格化、及び、レフェリングの精度向上
の二つしか道はないと思います。
個人的には①の選手たちに期待したいと思っています。
プロスポーツ選手は子供の鏡であることを忘れないで
プロスポーツ選手は大変だと思います
プロスポーツ選手は一般人に比べて、若いうちからすごい人生勉強をしていると感じます。一般人が、20〜30年で得るような体験を10年ちょっとで体験している、濃縮した人生を送っている気がします。
そして、勝負の世界で個人個人が常に良し悪しを判定される中で生きていて、メンタル的に本当に大変な仕事だとつくづく思います。それもまだまだ人格形成ができていない若いうちからなので尚更だと思います。
自分が彼らの歳の頃にそんなできていたかかと振り返ってみても、全く未熟でしたし、その頃は人格形成の初期だったと思います。アラカンの現在地でさえ、人格者なんて程遠いと思います。
そんな彼らに対し、年配でまだまだ未熟な自分が、”人格者であれ!”なんて要求する立場にあるのか?と自問してしまいます。
自分が影響力が大きいことを自覚してほしい
しかし、一歩引いて考えると、我々一般人と大きく異なるのは、彼らは注目度が高いこと。
そして、最も重要なのは、子供達の憧れでもあるということです。
プロサッカー選手はこのことを十二分に理解しておかなければならないと思うのです。
彼らの見本、将来の目標となるような選手になるためには、やはり彼らに恥じない人格者であれ!!スポーツマンであれ!!と思うのです。
真っ当に正々堂々と生きる姿を子供達に見せて、彼らの正しい道標になってほしい
厳しいようですがそう切に願います。本書を読んで、つくづくそう思いました。