石垣島の旅 観光初日は川平湾方面です
またも奥様のひらめきで急遽訪れることとなった石垣島の4泊5日の旅。
※全体の流れは、こちらのまとめ記事をご覧になってください。
観光初日、残念ながら曇天の空。でも雨は降ってこなかったのはラッキーでした。
後に地元の方に聞いたのですが、石垣島では2月は雨季だとのこと。まあ、雨が降らないだけましだということですね。
まずは、石垣島の代表的な景勝地である、島の西部にある川平湾に向かいながら、途中の名所を巡ってみました。
訪問地は、
①エメラルドの海をみる展望台(バンナ公園)
②石垣やいま村
③石垣島ミルミル本舗
④御神崎灯台
⑤そば家なかもと(川平)
⑥川平湾(グラスボート)
⑦米子焼工房 ゆんたくシーサー農園
それぞれをご紹介していきますね。お付き合いください。
①エメラルドの海をみる展望台(バンナ公園)
最初は、石垣市街地を北に向かい、石垣市街地を見下ろす展望台に向かいました。
結構な急勾配の登り坂を登って行きます。バンナ公園の中にある展望台で、石垣市街地を見下ろすのではなく、エメラルドの海をみる展望台なんです。
駐車場に着くと、展望台はちょっと年季の入った感じです。
曇天のため、エメラルドの海には正直見えませんでしたが、石垣島南方の海が見渡せます。また、市街地もしっかり見えています。
南西の方角、西表島や黒島が見えていました。
②石垣やいま村
バンナ公園を北側に抜けて山を降り、西側の海岸線に向かいます。次の訪問地は、石垣やいま村です。
石垣の人々の昔の生活を垣間見ることができる民家が国の登録有形文化財として展示されています。また、名倉アンパル(ラムサール条約登録域)といって、石垣島の原生林やマングローブを散策することができる場所もあります。
入村口
こちらが入り口。シーサーがお出迎えです。
こちらが施設案内図中央に、数々の邸宅、右上にアンパル塔、左側に名倉アンパルがあります。
牧志邸
入村してすぐ目の前にあるのが、牧志邸です。看板に記載ある邸宅の説明を引用させていただきます。
国・登録有形文化財 牧志邸
(建築期) 大正12年(1923年)建築
(旧住所) 石垣市大川 198番地
昭和59年(1984年)寄与。同年、石垣やいま村へ移業復元。(由来) 戦後初の石垣市長 牧志宗氏の住宅家屋。
建築者、父・宗保氏は当時高名な指物師で、二年の歳月をかけて建築。
八重山の代表的赤瓦建築様式。彫刻なども施された特色ある建造物。
全体の工法は、釘を用いない貫本式。(間取り) 床の間一番座(10畳)、飾り棚付二番座(7.5畳)、居間三番座(10畳)に玄関を構え、それを囲むように縁側を廻した外側に深い雨端が一周。
(材料) 黒檀、チャーギ(羅漢松)、他。
(一口メモ) ピーフン(前石垣)外から屋敷内が見えないように目隠しとして積上げられ
医師で石垣市長も務められた牧志氏の邸宅。正面に石垣があり、左右にシーサーが鎮座していました。
邸宅の裏手に回ると大広間が現れて、沖縄民謡のライブ演奏が行われていました。そして遠足に来ていた元気な幼稚園生がいっぱい。島の子どもたちってこんなにいるんですね。島の将来安泰です。沖縄らしい緩やかな楽しい時間が流れていきました。
三線のお兄さんとおばあのコンビが、沖縄民謡を盛り上げます。
アンパル塔
奥に進むと、アンパル塔が見えてきます。
螺旋状を登っていくと、海が見えてきます。西表島方面が見えてきます。
看板の説明によると、アンパル塔は八重山の島々においての周辺海域の監視の役割を果たしていたそうです。
アンパル塔 遠見台(遠見番所)
1644年に異国船の監視や、唐船、大和船、琉球の進貢船・接貢船などの漂着を管理するために沖縄各地に設けられた。この時期は南蛮船が多く琉球国の海域に出没していたため、八重山近海に姿を表すと、直ちに首里まで報告された。遠見台の近くには遠見番所が設けられ、はじめ八重山地域で60人、後に30余名と人数が少なくなるが、このスタッフが各番所に詰めて監視を行った。
八重山において烽火(のろし)を挙げるのは、琉球船と唐船の場合は「立火」を二つ、大和船の漂着の場合は「立火」三つ、外国船漂着の時は「立火」四つと決められ、なおかつ早船で次の島へ連絡を出した。
また、沖縄本島や他地域では烽火を挙げる回数が異なっていて、時代や地域によって回数がさまざまあったようである。八重山諸島の最終報告地点は、現在の八重山博物館(石垣市字登野城)に在していた在番所であった。
この塔は、八重山の遠見台文化を保存・継承するために遠見台をモチーフとして建てられたものである。
八重山の遠見台の多くは琉球石灰岩を渦巻状に積み上げており、黒島では遠見台のことを方言名で「プズマリ(渦・周り)と称し、その形状を名前としている。
八重山諸島の西の方の島から、のろしを使って状況を報告していたんですね。
森田邸
続いて、森田邸。看板に記載ある邸宅の説明を引用させていただきます。
国・登録有形文化財 森田邸
(建築期)明治42年(1909年)建築
(旧住所)石垣市大川278地 昭和59年(1984年)寄与。同年石垣やいま村へ移設後。
(由来)八重山の旧家、梅公姓孫詳(元与那国村長)が築造。八重山の典型的な土族屋敷の形式を代表する家屋。部屋数も多く、広い裏座敷、突き出た玄関を構えるなど自由に設計された築。格式や風情、趣きなどを保存。
(間取り)床の間一番座(8畳)、仏間二番座(8畳)居間三番座(4畳)と並び主屋と棟続きに 33坪の台所(トーラ)と1.5坪のと庫裏(クール)と続く、それらの表座数に対し一番裏座・二番裏座・三番裏座と続き部屋の外側を取巻くように縁側と雨端がある。
(材料)琉球黒檀(クルキー)材、キャーギ材
(一日メモ)カー(井戸)
井戸の始まりは地面を揃って揚水するのではなく、川の流水をせきとめて水場にしたり泉の出口を切り広げて水を溜めたりしていました。
屋根にシーサー像が鎮座しています。民族衣装の試着ができいるサービスがありました。
喜舎場邸
続いて、喜舎馬邸。看板に記載ある邸宅の説明を引用させていただきます。
国・登録有形文化財喜舎場邸
(建築期)大正12年(1923年)建築
(旧住所)石垣市登野城81番地
平成19年(2007年)に寄与。平成20年に石垣やいま村へ移築復元。(由来)「八重山学の父」と呼ばれる歴史、文化研究家、喜舎場永氏(1885-1972)の住居であった建物。喜舎場氏は、沖縄民謡を代表する「安里屋ユンタ」を発掘、全国に広めた人物。石垣市名誉市民でもある。喜舎場邸は北側に玄関を配する珍しい形式で複雑な屋根の形状が特徴。
(間取り)特異な問取りを有しており、玄関は北向きに面し、中央に一番座(8畳)東側に二番座(6畳)と続き、4台所(トーラ)、庫裡(クール)、板間が続く。
(材料)イヌマキ(キャーンギ)、福木(フクン)
(一口メモ)ピッチリ (石敢営)
つき当たり等の家に災いが舞い込まないように、魔除けとして設けられた。
八重山の歴史・文化の父といわれた、喜舎馬氏の屋敷。
特異な間取りなんだそうです。立派な大広間です。
大浜邸
続いて、大浜邸。看板に記載ある邸宅の説明を引用させていただきます。
国・登録有形文化財 大浜邸
(建築期)明治40年(1907年)建築
(旧住所)石垣市登野城8 6番地
平成19年(2007年)に寄与。平成20年に石垣やいま村へ移築復元。(由来)大浜家六代目当主 信賁氏の代に建てられた。建築棟梁は弟である大浜信烈氏(早稲田大学元総長大浜信泉氏の父)。八代日当主 大浜信賢氏(1904-1972)は医学博士であり、八重山郡民を苦しめていたマラリアの撲滅に尽力した。邸の一部は一時期病院としても利用された。八重山の典型的な士族の邸宅様式を持ちながらも、床の間には庵の様式も取り入れている
(間取り)床の間一番座(8)、仏間二番座(8畳)、居間三番座(6畳)さらに
四番座を有し、主屋と棟続きに台所(トーラ)と庫裡(クール)となる。
それらの表座敷に対し、一番裏座、二番裏座、三番裏座と続き、部屋の外側を取りくように縁側と雨端がある。(材料)イヌマキ(キャーンギ)、琉球黒檀、福木
(一日メモ) カザンガマイ(風構え)
台国が接近するとあわただしく対策作業を行うことをカザンガマイといいます。
当村では雨戸と雨戸の間に根を挟んだり、屋敷の周囲を鋼素で引っ張る等の対策を行います。
八重山諸島におけるマラリアの根絶に尽力した、大浜信賢氏の邸宅。赤瓦のつまれた塀が、今までの邸宅と違い特徴的です。
中には旧盆の飾りが展示されていました。
今までの邸宅の作りに比べて、ややこじんまりとしていて庶民的な雰囲気でした。広間にあがらしてもらって、畳の上で寝転がったり、縁側に座ったりしてみました。どことなく、懐かしく居心地の良い空間でした。
上地邸(農民の家)
続いて、農民の家、上地邸。こちらは復元した家屋で、当時の農民の暮らしを見入ることができます。サトウキビから黒糖を作る機械も展示されていました。
こちらが、シートーグルマと呼ばれるサトウキビの圧搾機。牛や馬に先端を円弧状に引っ張ってもらって、中心の機械でサトウキビを圧搾します。
こちらが農民の家。当時の農民の生活が窺い知れます。
水牛とカンムリワシ
その先には、水牛が一頭。小さな池に入り込んで微動だにせず。何を思っているのだろう?という感じでした。
少し進むとカンムリワシがいました。カンムリワシと聞くと思い出されるのは、石垣島が産んだボクシングのチャンピオン、具志堅用高さんです。
しかし、カンムリワシは道路で轢かれる事故が多いそうなんです。道路上にいるカニやカエルなどの生き物を狙って路上に留まることが多いということ。なので、石垣島をドライブする際は、スピードを抑えて運転してくださいとのことでした。
また、石垣やいま村では、交通事故などで傷ついた野生のカンムリワシの保護やリハビリ活動も行なっているとのこと。素晴らしい取り組みです。
網の中にいたカンムリワシ。ピンボケでした。
名蔵アンパル
アンパルは干潟、マングローブ林のある地域だそうです。多くの生き物が暮らしています。石垣島の大自然を観察できる地域です。
またここはラムサール条約に登録されているということです。ラムサール条約とは、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」ということで、条約の目的である湿地の「保全(・再生)」と「ワイズユース(賢明な利用)」、これらを促進する「交流、学習(CEPA)」。これら3つが条約の基盤となる考え方なんだそうです。(ラムサール条約について)
石垣島の原生林の中を進んでいきます。
珍しい樹々がたくさんありました。
進んでいくと石段があり、降って行きます。滑りそうで注意が必要です。
マングローブのウッドロードに到着。
木製の橋の上を歩きながら、マングローブ林の中を進んでいきます。
目を凝らしてみましたが、希少生物は見つからず。きっと心の汚い人には見えないのでしょう。残念!
③石垣島ミルミル本舗
続いての訪問地は、石垣島ミルミル本舗。バナナマンのせっかくグルメで日村氏が訪れていて、絶対行かなきゃという奥様の指令に基づき、訪れました。
店舗の向こう側にはもう海が見えます。まさに展望台のような場所でした。
しっかりとシールを確認できました。
右側は、クール(石垣島の昔ながらの乳飲料)とバニラのジェラート。左は、チョココーヒーと胡麻っぽいやつだったかなのジェラート。濃厚で、美味しゅうございました。
そして、目の前に広がる綺麗な緑とエメラルドの海のコントラストが素晴らしい。晴れていれば、もっと素晴らしい景色になることでしょう。ジェラートを食べながらの絶景は最高です。
④御神崎灯台
続いては、川平湾に向かって北に進みます。石垣御神崎灯台です。
石垣島の西の端に位置する灯台。
日本海側のような険しい岩岩と、曇天とが重なり、石垣島とは思えない暗めの景色。
晴れていたら、綺麗なんだろうなあと思いながら、すごすごとクルマに戻るのでした。
⑤そば家なかもと(川平)
そして、本日の目的地、川平湾にお昼ごろ到着しました。お昼ご飯ですね。
川平湾駐車場の前にある、「そば家なかもと」さんです。駐車場は店舗向かって右側に2台ほど停められました。
優しそうなお母さんが1人でやってらっしゃるお店。八重山そばは心温まる優しい味。ちゃんぽん麺のような太めでありながら柔らかめの麺と優しい味のスープが胃を優しく満たしてくれます。美味しゅうございました。
⑥川平湾(グラスボート)
いよいよ、本日のメインイベント。川平湾を訪れます。
駐車場はこちらの無料駐車場に停めました。有料の駐車場を通り過ぎてしまい、Uターンしようとした際に見つけました。
そこから砂浜に出て、てくてく歩いて川平湾へ。展望台に登って、観光サイトでよく見る風景を拝みます。
いやー、こんな曇天でも十分に青い!エメラルドの海です。
いくつものグラスボートが湾内を行き来しています。
ということでグラスボートに乗ってみようという話になり、なんとなくこちらのお店を選びました。
「海ほたる」に乗船。
グラスボートというだけあって、船の底がガラスになっていて、海の中を見ることができます。出発する前でも、小さな魚が泳いでいるのがわかりました。
湾内に進むと、エメラルドカラーの中、魚たちが泳いでいます。
ウミガメも見ることができました。
そして、サンゴ。
結構、沖の方まで行ってくれました。
⑦米子焼工房 ゆんたくシーサー農園
川平湾を後にしての帰り道、ちょっと変わった店があると立ち寄ったのがここ。
この看板にあるように、まさに異次元パワーの世界が繰り広げられていました。
おびただしい数のシーサーのような銅像。しかもみんなニコニコ。
何これ?と引き気味になりながらも、引き込まれて行きます。
園内の銅像の不思議なパワーに圧倒されて、引き込まれて行きます。
結局園内を一周。なんとも言えないパワーをもらいました。そして入り口には売店。幸せの銅像たちが売られていました。
観光初日はここまで
観光初日は、石垣島のサイズ感というものを把握できていないもの。そいういう意味では、川平湾を最初に選んだのは正解だった気がします。
なので、観光2日目は北側を攻めて結果的に左回りに1周することになります。
それでは次回。
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